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    陸軍中野学校 「皇統護持作戦」
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      日本人が必死に守ろうとしたもの【皇統】
             久保田 善海

      東京石神井公園の三宝寺池の裏手にある日銀グランドの石神井倶楽部(現在は運動場跡地になっている)を
      接収していた陸軍中野学校は、ここに在京の秘密機関「離島作戦特攻隊本部」を置いていた。

      敗戦(1945年8月15日)から五日後の未明、この本部から軍用トラック2台がひそかに出発した。


      「皇統護持作戦」の発動であった。

      荷台には野営道具、寝具、自転車、食糧などが積まれていた。
      2台の軍用トラックが目指す先は新潟県六日町と長野県大町であった。

      六日町班は一期生の日下部一郎少佐と猪俣甚弥少佐。それと6丙出身で教官の田中寛少尉の三名が同乗し、

      大町班には同じく一期生の渡辺辰伊少佐と安部直義少佐、乙2出身の岩男正澄大尉の三名が同乗して、
      それぞれの目的地に向かった。

      日下部少佐と岩男大尉が持つ軍用鞄にはそれぞれ機密費から支出された
      20万円(新円切り替え前の現金なので現在の価値で3千万円相当)の札束が詰め込まれていた。

      東京はまだいたるところに瓦礫の山が残されていた。

      旧国道9号線(中山道)を北上して2台のトラックは高崎で別れ、
      大町班は碓氷峠に向かい六日町班は三国街道を目指して三国峠に向かった。

      ところで皇統護持作戦とは如何なる計画であったのか。

      実行部隊の日下部は回顧談に書いていた

      日本は負けて占領軍が入ってくるが、占領政策がどのようになるかわからぬ。
      それ故、陛下とそのご一統の運命がどうなるかも分らぬ。
      しかし我々としては、天皇家のお血筋を守り通さねばならない。
      そのため、そのお一人である北白川の若宮殿下を隠匿して、万が一のために皇統を護持する。
      それが本作戦の主旨である

      要するに、占領軍によって天皇家が断絶された場合、
      代わって天皇家を継ぐ人物を隠匿しておくという作戦を、
      少数の中野学校卒業生たちが極秘に進めていたのである。
      それも、敗戦からまだ5日しかたっていない時期にである。

      マッカーサー連合国最高司令官が厚木に降り立ったのは8月30日であった。

      北白川の若宮殿下とは、北白川の宮家第五代当主道久王のことで
      当時学習院初等科に通う7歳の少年であった。

      父親の永久王の母君房子内親王は明治天皇の第七皇女で、昭和天皇の叔母君にあたるお血筋。
      道久王は明治天皇の曾孫というお血筋であった。

      この作戦を計画したのは阿南惟幾陸軍大臣の秘書官を務めていた広瀬栄一中佐と言われている。

      広瀬が道久王に目を付けたのは、その血統と7歳という年齢。
      それに1944年夏から山梨県勝沼町に一家は疎開して東京を離れており、
      世間から目立たぬ存在であったことが「次代の天皇」に選んだ理由であったようだ。

      また、広瀬は永久王とは陸士同期の間柄で北白川宮家に信頼されていた。
      父親の永久王は富士の裾野で行っていた陸軍の演習のたびに、
      土地の大地主であった田中家の屋敷で休息したという。
      そんな関係から北白川宮家は勝沼に疎開して田中家の世話になっていた。

      戦前、町は甲州街道筋が中心地で、
      現在も街道に面して田中家が経営していた山梨田中銀行の建物が国の登録文化財として保存されている。

      管理をしている婦人(78歳)いわく

      「終戦の前年でしたな。東京から宮様御一家がこの土地に来ていて、
       田中家の本邸に住まわれていたんですわ。
       それで、宮様御一家を警護するため甲府の連隊から兵隊さんと、
       背広を着た人たちがたくさん詰めておりました。
       この建物にもお付きの人たちが30人も寝泊りしていました。
       若宮様が国民学校に通学する時なぞは、街道に出ることを禁じられよった。ようく覚えております。
       二階には北白川家のお品が展示してありますわ」

      婦人の案内で二階に上がると、6畳の部屋にはブロンズの小楠公像が飾られていた。
      桐箱には北白川宮家と墨書されていた。

      隣の8畳間には葵紋が描かれた桐箪笥があった。
      葵紋は永久王の妃、祥子妃の実家で男爵家の徳川義怒の家紋。

      これらの品物は宮家が田中家に世話になった礼に下げ渡されたものであるという。
      これで、道久王が勝沼に疎開していたことが裏付けられた。

      当時、疎開していた宮家の人は道久王のほかに祖母の房子内親王と母の祥子妃、妹の筆子女王の四人であった。

      父の永久王は40年に任地の蒙古で飛行機事故で亡くなっている。

      道久王が勝沼に疎開して一年余。
      日本は降伏し、房子内親王だけが一足先に東京に戻ったが祥子妃と道久兄妹は勝沼に残留した。

      しかし一方では、道久王を世間の目から隠すための作戦が進められていた。
      広瀬中佐から事情を聞かされていたのは房子内親王だけであった。

      では、六日町班の動きはどうであったのか。

      前出の田中少尉は内々の座談会で次のように証言している

      石神井の秘密機関に行き、いっしょに六日町に向かった。
      途中、三国峠をトラックが通れぬので法師温泉に行き、そこから高崎に引き返し、
      碓氷峠を越えて湯田中温泉に入った。先を急がねばならぬということで、日下さんと二人で汽車で先行、
      今成邸へ行った。着いた日、わたしは、バーモウさんに会わなかったが、
      翌日、薬照寺でバーモウさんをはっきり見たことを覚えている

      薬照寺は現在の南魚沼市君沢に創建された真言宗智山派の古刹。
      上越線石打駅から北に3キロのところにあり、本堂の裏手には上越線が走っている。

      住職は「中野学校とバーモウさんのことは先代住職から聞いています。
       バーモウさんは戦後、当寺に半年ほど隠れていたそうです。
      中野学校の人たちも当寺に宮さまの隠蔽を相談するために
      六日町の名士だった今成拓三さんらと何度も、来ていたそうです」

      バーモウと言えば戦前、日本軍の後押しでビルマの国家主席に就いた人のはず。
      そのバーモウが薬照寺に隠れて住んでいた?
      「皇統護持作戦」とバーモウはどう関わってくるのであろうか。

      日下部少佐らが六日町で会った人物が今成拓三。
      彼は当時、六日町で手広く事業を展開していた実業家で、
      傍ら翼賛壮年団新潟県副団長の仕事もして天皇家を敬愛していたという。

      今成は外務省ルートで依頼されたバーモウの亡命に尽力していた。

      日下部らとの出会いを郷土誌に記している
      突然、中野学校の話が持ち込まれて面食らったが、
      向こうの話にも協力するが、こちらの話にも協力を頼み、二つの仕事を並行してやることを約束したのです。
      その時、日下部氏は、バーモウさんを占領軍から守り抜くのを「東工作」、
      皇統護持の方を「本丸工作」と呼ぶことにしようと提案しました。

      数日後、トラックに物資を積んだ本隊がやってきて、中野学校組は総勢6,7名になり越前屋に泊まった
      こうして皇統護持作戦は「本丸工作」として動くことになるが、
      平行して行われた「東工作」は、46年1月にバーモウが東京の英軍司令部に出頭して幕が引かれた。

      では本丸工作はどうなったのか、バーモウの出頭でGHQに工作の真相が知られてしまい
      関係者は次々に逮捕され、あるいは逃亡を図ることになるが、最後まで奮闘したのが猪俣少佐であった。
      彼は同志と六日町で別れ単独行動をとり、広島に向かった。

      45年9月のことである。

      木村剛の変名で、猪俣は道久王に平民の戸籍をとり、市井の中で暮らさせるという奇抜なアイデアを考えた。

      市民の大半は原爆で戸籍簿が消失している点に目を付けた。

      結果的に戸籍の調製には失敗する、申請書の不備が原因で役所が受理しなかったのである。
      戸籍の調製をあきらめて帰京する途中、知人の実家がある新潟県の新津に立ち寄っている。
      同志の動向が気がかりであった。広島を発って一ヶ月後のことである。

      猪俣はGHQから指名手配されていることを知らなかった。
      手配の端緒はバーモウの取り調べからで、
      年が明けて2月に東京から派遣されたCIC(GHQの対敵諜報部隊)の手で逮捕されている。
      また、日下部も越巻も六日町でCICに逮捕され巣鴨プリズンに送られていた。

      一方、大町班は、45年末に自主解散していた。
      理由はGHQの占領政策が天皇制保持に傾いたためである。

      昭和天皇が御自らGHQにマッカーサーを訪ねた後のことである。

      これによって本丸作戦は実現することなく戦後史の闇に埋もれてしまった。

        この極秘作戦について、陸軍中野学校史は簡単に記述している

      この皇統護持作戦の六日町班は、
      後にバーモウ(ビルマ政府主席)隠蔽工作事件に関して、非常に苦労するが、
      総て終戦後のことなのでここではふれない。

      65年前、終戦で虚脱状態にあった帝国陸軍。
      そんな状況の中で途方もない作戦を実行した陸軍中野学校。

      一部の卒業生が実行した作戦ではあったが中野学校とは、このような戦後秘話を残したスパイ学校であった。
      今の時代、この作戦を荒唐無稽な絵空事と笑うものがいるかもしれない。

      だが、当時は天皇の命も危うい時代であったということを知るべきである。

      そして、このような決断を下さねばならない事態が起きないように
      国民は心して政治を監視し続けなければならないのである。

      因みに、本丸工作に使われた軍資金は総額で80万円(現在の価値で1億2千万円)。
      この資金の全ては陸軍の機密費から支出された。

      道久王が勝沼から東京に戻ったのは46年春で「本丸工作」は未完に終わったが、
      敗戦直後の日本は旧皇族方の身にも大変革を求めていた。

      47年10月に開かれた「皇室会議」で秩父宮、高松宮、三笠宮の三直宮家を除く
      旧宮家51人が皇籍離脱して一国民として再起する「臣籍降下」の決定をした。

      旧宮家の北白川家も含まれており、
      その日から道久王は「北白川道久」を名乗ることとなる。9歳の時である。

      東京での生活は文字通り竹の子生活であった。
      成人して大学を卒業するといくつかの会社に勤めているが、大手の電気会社を退職した後、
      伊勢神宮大宮司の職を7年間勤め、現在73歳で霞会館理事長の職にある。

      一方「本丸工作」に参加した中野学校卒業生7人は、すべて鬼籍にはいられた。

      付け加えておくならば作戦に参加した7人のうち、
      バーモウの供述で4人が逮捕され巣鴨プリズンに送られ、
      CICに「東工作」と「本丸工作」の関係を厳しく追及されたが、
      4人は無関係である事を最後まで言い張った。

      その結果、GHQも証拠不十分で釈放せざるを得なくなり46年8月、4人全員が釈放された。
      大町班の3人は六日町班の氏名などを一切、白状しなかったため拘束すらされなかった。

      今の時代でも米軍による拷問が話題にのぼるくらいなのだから、当時の尋問の凄まじさは言うに及ぶまい!
      民間人のしかもビルマ人のバーモウがペラペラ白状したことは咎める事は出来ない!

      陸軍中野学校がいかに優れた軍人を輩出してきたかを知るには、
      小野田少尉の帰国が一番よく物語っているのではないでしょうか!

      http://sns.mynippon.jp/?m=pc&a=page_fh_diary&target_c_diary_id=595680&from=dailynews
      より転載。

      | takehariy 鳳龍門 | サバイバル | 12:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
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